冷たい水の中でひっそりと もうじきお昼。少し遅めの餌やりのために、各水槽を回っていたときのことだ。川魚水槽で、オイカワが1匹、白い腹を見せて沈んでいるのを発見した。ウグイ達が篭っていた岩穴の中だ。そのせいかどうか、今日はウグイ達がすべて外に出てきている。 落ちたオイカワは、まだ小さかった。体長にして7〜8cmといったところ。思い当たることはあった。昨日の朝、水面付近をどことなく進路の定まっていないような泳ぎ方をしていたオイカワがいたのだ。おそらくその個体だろうと思われる。 さっそく死体を取り出そうと網を掴んで手を水槽に入れると…、まるで氷のような鋭い冷気が皮膚に突き刺さって来るのを感じた。まさに手が切れそうな冷たさだ。指先がしびれてうまく網を操ることが出来ず、死体の収容に予想外に手間取ってしまった。こんな冷たい中で、よくも平気そうに泳いでいられるものだと、こっちの様子をうかがっている残りの魚達に感心してしまう。 雪の残る庭土を、スコップで浅く掘り、死んでしまったオイカワを埋めた。低水温だったせいか、まるで生きているような目の鮮やかさと体表の輝きに、なんだか違和感を覚える。いまにも跳ね起きてきそうだ。そんな思いを断ち切るように、ぱんぱんと土をかぶせ、視界からその姿を消し去ってしまう。春になるころには、すっかり土に還っていることだろう。
転がった貝殻 昨日から、ちょっと気になっていることがある。玄関の海水R360水槽の中で、貝殻が1つ転がっているのだ。ヤドカリのために入れてやっていたスペアであれば、特にどうということもなかったのだが、その貝殻には見覚えがあった。 この水槽にライブロックを入れた時に、岩と一緒に入ってきた美しくも白いヤドカリが好んで入っていた貝殻なのだった。 中に潜んでいる気配はない。だいたい丸一日以上同じ姿勢のままそこにあること事態、不自然だ。おそらく中は、空っぽに違いあるまい。あるいは…… その怖い考えは、しばらく封印しておこう。彼はきっとどこかで生きている。近頃ヤドカリ達のお引越しが相次いでいたので、別の貝殻に入った可能性は高い。
涸れ池のブラックバス みこりんを保育園に送っていく途中に、ほどよく大きな溜め池がある。おそらく農業用水に使われているのだろう。毎年、秋の終わり頃から、徐々に水位は低下し始め、ついにはからっからに干上がってしまうのが常だった。今年も例外ではなく、池の底から錆々の自転車だとかスクーターが引き上げられるほどに涸れていた。 ところが、今朝気付いたのだが、いつのまにか水位が半分ほど復活しているではないか。それほど大雨が降ったような記憶はない。どっちかというと雪の方が多かったような気もするが…。 ところでこの池、毎年のように水が涸れてしまい、また復活するというサイクルを繰り返していながら、春にはブラックバスの釣り人で賑わうのである。川が流れ込んでいるわけではないところが、さらに謎を深めている。涸れた池でブラックバスが生き延びられないだろうし、やはり誰かが持ち込んできているとしか思えない。でも持ち込むにしても、バケツに1杯や2杯なんてレベルでは有り得ないだろう。なにしろ春夏秋と、釣り人は絶えることなく通って来るのだから。 まさか自然に湧いて来るわけでもあるまいし、ブラックバスがいったいどこからやってくるのか、気になるところだ。あるいは数ペアを放流するだけで、爆発的に増えるのかも。それはそれでちょっと怖い。
墓荒らし 我が家の北側には、ちょうど1区画分の空き地が広がっている。夏ともなれば茅等で草ぼうぼう。必然的に猫たちの憩いの場となってしまっている。毎年、恋の季節になれば親猫は子を産み、育て、そして時には死んでゆくのであった。それゆえに、猫の糞害その他諸々のトラブルを被ってきた、というわけである。今現在は、庭のほとんどを高さ2mのネットで囲っているので、心穏やかに土いぢりができるようになったが、この平穏を手に入れるのに費やした時間と資金は、それ相応のものがある。…という前振りはこのくらいにして、と。 このように猫たちが闊歩する場所にあって、これまでずっと不思議に思っていたことがあった。 魚を飼っていれば、その死に直面することはけして特別なことではない。我が家でも、落ちた魚の数は、数十に上るだろう。ひょっとすると3桁にのっているやもしれん。そのたびに、死んだ魚は庭に埋めてきた。これは魚に限ったことではなく、砂ネズミやハムスター、セキセイインコに至るまで、小型のペットはすべからく庭で土に返してきた。 哺乳類や鳥類が死んだ時には、特に念入りに深く掘って埋めていたが、小さな魚はそのほとんどが5cm足らずの浅い穴だった。にもかかわらず、これまで一度も墓を荒らされたことがない。生ゴミは平気で漁る猫や烏でも、土に埋まった魚にはまったく興味が無いのだろうか。 野良猫といえども案外グルメで、新鮮ではない生魚なんか食べようとは思わないのかもしれない。マグロやカツオといった魚だったら喜んで食べるのかという疑問も湧いてくるが、さすがにそんな魚を飼うだけの設備はないので試すこともできないが、サラサハタを埋葬したときにも手を出されなかったので、美味いかどうかはあまり関係ないかもしれない。 何かの話しで、猫は本来、生魚は食べないのだというのを聞いたような記憶もある。でも、マグロの刺身を食べる猫は実際いるのだから、調理してないからというのもちょっと違うような気もする。 猫は、なぜ魚の墓を荒らさないのか。謎はこれからも続いてゆく。
スーパーなオレンジ ウズラの餌がなくなったので、ペットショップに買い出しに出た。すでに夕刻、じわりと肌寒い。 わりと大きなペットショップなので、いきなり魚のコーナーには行かずに、まずは小動物を眺めてゆく。けれどもハムスター達には少々時間が早かったようで、さっぱり姿が見えず。みこりんも残念そうだ。しかし、その奥の大きなケージの中に、私の視線は釘付けとなる。な、なんだ、これは… どうみても破れかけたハンドボールだった。奇妙に丸い。色は黄色とクリーム色を混ぜたような、なんとも形容しがたいもの。いったい何の生物なのか。名札を見て、さらに驚く。そのボールは、アルマジロだったのである。 アルマジロ売っていいのか?と一瞬思ったものの、アルマジロ料理とかあったような気もするし、大丈夫なのかもしれん。さっそくみこりんに「これ、なーんだ?」と問うてみたのだが、なんだか顔を強張らせて引き気味である。得体の知れない物体を怪訝そうに見つめ、「あれがそう?」と、こわごわ指差したものだ。無理もないか。みこりんはアルマジロを見るのは、たぶん初めて。このボールが生物とは、なかなか理解が及ばないらしい。 それでもみこりんは一般化に成功した。同様に丸くなる生物、ダンゴ虫のことを思い出し、ようやく合点がいったようだ。どんな顔なのか、伸びるとどんな姿になるのかと、矢継ぎ早に質問してくるのだが、当のアルマジロは微動だにせず、丸まったままであった。動物図鑑を買ってやらねばなるまい。ちなみに、みこりんは丸まったアルマジロのことを「メロンみたい」と評していた。たしかにそう見えなくはない。 さて、そのアルマジロの上ではカナリアの夫婦が2組いた。オレンジ色した鮮やかな毛色が、なかなか美しい。久しぶりにカナリア飼ってもいいかな、なんて思いつつ眺めていると、餌入れの中に、そこにあってはいけないものを見つけてしまった。卵だ。薄いブルーの殻に包まれた、小さな卵は、しかし、てっぺんが欠けて中が見えてしまっていた。それを親鳥がすすっている。 Licが、隣りのペアを指差して言った。「これも卵あっためてる?」そう言われてみれば、そちらのメスが餌入れの中に、さっきからじっと座り込んだままだ。人間を怖れるようすもなく、黙々と座り続けている。間違いあるまい。卵を温めているのだ。そういえば昔、文鳥を飼っていたとき、巣を入れてなかった籠で、メス鳥が卵を餌入れに産んでいたことがあった。このカナリアの籠にも巣は入っていない。おそらくこの先も、巣は入れてもらえないような気がする。店員さんが、この状況に気付いてないとは思えないし…。その後が気になってしまう光景だ。 そしていよいよ魚コーナーへ。ここでは色鮮やかなザリガニが目を引いた。“スーパーオレンジ・ザリガニ”とある。名前の通り、たしかにオレンジ色だ。海水エビで、これに似たやつを見た事はあるが、淡水でもこれほどの美麗なエビ(というかザリガニ)が飼えるとは、興味深い。値段も6千円と、そこそこお手ごろ。飼うとしたら、やはりリビングあたりに水槽を置きたいところだ。でも残念ながら、今は置き場所が………、いや、ある。ハムスターと陸ヤドカリのケージを重ねれば、その横に30cm水槽を置く余裕が生まれるだろう。思案のしどころだ。
“何か” ちゃんとした水温計を買ってこなくては、と思いつつ、日々の忙しさに負けてずるずると。今宵も海水2m水槽の水温は26.8度と表示されていた。ちょっと不気味… ところでこの水槽、水温だけでなく、近頃、音の方も幾分騒々しくなったような気がする。耳につくようになったのはモーター音ではなく、水音の方だ。水流が変わったのかどうかは不明だが、ばしゃばしゃと激しく渦巻くようになってきた。いったい何がどうなっているのか、謎は深まる一方である。水位に目立った変化は見られないため、パイプの位置が何らかの外力によって歪んだのではないかと思うのだが、問題はなぜそのような変動が生じたか、だ。何かが触れた、というのがもっともわかりやすい説明になるのだけれど、その“何か”というのが見当がつかないため、どうにも悩ましい。 屋外に出しているモーターと配管、それを収納したワーディアンケースには、今、シルバーシート(ウレタン表面に銀色のシートが貼り付いているやつ)を巻き付けてある。中はかなり暖かいだろう。もしや…、中に“何か”いたりして…。
カニの記憶 今でも時折、ふっと記憶の表層に浮かんで来るシーンがある。私がまだ保育園に通っていた頃のことだから、かれこれ30年ほどの昔の出来事だ。 当時住んでいた家の近くに、小さな用水路があった。幼児でも小さいと認識するほどのものだから、よほど小さかったと思われる。その場所は、ほとんど水が流れていなくて、普段から生物とは縁が遠かった、はずだった。けれども、その日、私はその用水路で素晴らしい発見をしたのだ。なんとカニを2匹も捕まえたのである。 どんな種類のカニだったか、もはや思い出せないのだが、幼児の手でも捕獲できたことを考えるに、サワガニの子供だったのではないだろうか。家の近くには小川が流れていたので、おそらくそこからやってきたものと思われた。 当時から生き物には目がなかった私は、捕まえたカニを、当然のごとく飼うことにした。洗面器にとりあえずカニを入れて、水を注ぎ込もうと、水道の蛇口を、くいっと捻る。みるみる洗面器を満たす水。ところが、私の目の前でカニ達は、あっけなく腹を見せてしまったのだった。 突然の異変に、私はかなり動揺していた。思わずカニに触ろうと手を伸ばす。……カニに触れる前に、私は原因を知ることになった。水を入れたつもりが、なんと“湯”を入れていたのだ。 不本意ながらも自らの手でカニを殺してしまったという“罪”の意識は、その後もずっと私の中に留まっていたように思う。もちろん生き物を飼えば、死んでしまうことはある。そのこと自体はすでに理解していた年齢だったが、これから飼おうというまさにスタートラインに立ったところで、いきなり落とし穴にずどんと落ちてしまったかのような不幸な出来事は、幼年期の私にとってはとてつもなくショックなことだった(いまでもそんな状況になったら、しばらく立ち直れないかもしれないが)。 ところでこの記憶には、1つだけ不可解な点がある。その時、どうして“湯”が出てしまったのか、ということだ。当時、ボイラーなんて便利なものはなく、湯沸かし器すらなかった。風呂はもちろんカマド焚きの五右衛門風呂。いったいどこから“湯”が沸いてきたのだろうか。 かすかな記憶を辿ってゆくと、なんとなくその日はとてつもなく暑かったような…。 灼熱の太陽に熱せられた水道管。真夏の太陽の下であれば、おそらく40度を越えることも可能ではなかったか。カニ捕獲の興奮に我を忘れた幼児の私が、捨て水をすることを忘れてしまったのだとしたら…。 この仮説が現在のところ、もっとも有力に思われるのだが、果たして真相は如何に。 遠き夏の日の、幻のような記憶は、今も消えず。
釣りの記憶 子供の頃、私は釣りが異様に下手だった。今でもさほどうまくはないが、それでも水槽で飼う分を十分以上にまかなえる程度には釣れているので、それに比べても悲惨な状況だったことは間違いない。まったく釣果なしの方が多かったのだから。網で捕獲した方が、まだましだった。 そんな私が、今でも覚えている釣りの場面がある。川と海と、それぞれ1つ。 川には、弟と出かけていたように思う。釣り糸を垂れ、待つことしばし。いつものようにさっぱりアタリが来ないので、だんだん飽きてきた私は、釣竿を川岸に突き立てたまま、支流のコブナを追っかけたりしていた。 やがて竿のところに戻ってみると、なんだか先端が水中に没しているのが見えた。「あれ?」と引っ張ってみたところ………、お、重い。ビビビと、すさまじい引きがあった。もう無我夢中で竿を引き上げたものだ。 釣り上げた獲物は体長30cmはあろうかというフナだった。竿の先端が折れるほどの、戦いだったが、その間、何をどうやって釣り上げるに至ったのか、肝心のところの記憶は今も曖昧なままだ。 海も、似たようなシチュエーションだった。父と岸壁釣りをしていたのだが、やっぱりアタリがなくて、次第に飽きてきた私は、竿をそのままにして、テトラポッドの中を覗き込んだりし始めたのだ。ふと気付いたときには、竿は大きくしなっていた。急いで引き上げてみると、これまた立派なアイナメが1匹、ぶら下がっていたのである。 いずれも竿を手に持っていなかった時に、大物がヒットしたことになる。そのへんに因果関係がありそうな気もするが、そのような幸運が続くことはなかったので、ただの偶然だったのかもしれないが。 そして現在、小物には恵まれるようになったが、あの当時釣り上げたような大型の魚には、とんと縁が無くなってしまった。できれば今年、ぼってりと太った鯉か、ナマズを釣り上げてみたいものである。
カメの子の記憶 子供の頃、私は生き物を飼うのが好きだった。その傾向は今でもあまり変わっていないかもしれないが、小さかった頃の方がいろいろと感動も大きかったような気がする。 保育園に通っていた当時の私にとって、その生き物はこれまでにない新鮮な驚きを与えてくれた。その生き物とは、カメだ。ミドリガメの子供、正確にはアカミミガメの子供ということになる。500円玉サイズのカメの子は、甲羅が美しい緑色であり、小さいくせに手足の先には爪があり、細い尻尾とビーズ玉のような目をしていて、私はそれはそれは大切に飼っていたように記憶している。なにしろカメなんて自然化で見た事がなかったので、とにかく珍しかったのだ。 小さな金盥に水を入れ、休憩用の石を真ん中に置いた簡素な空間で、カメの子を飼っていた。餌はたぶんニボシをやっていたように思う。手渡しで食べてくれた時の感激は、たぶん今も忘れていない。 そんなある日のことだった。不幸はいつも唐突に訪れる。 保育園の遠足かなにかで海に出かけていた私は、遠浅の砂浜で、ヤドカリやら小さいカニやら、波間にただようワカメやらを捕まえることに夢中になっていた。川は身近にあったが、海は自力で行くにはちょっと遠かったので、すべてが珍しく感じられたものだ。 イチゴパックに獲物を入れて、家に戻ってきたのが午後のこと。その日も、とても暑かった… 家の中は、まるで温室の中にいるような濃密な空気で満ちていた。ねっとりとねばりつくほどに熱せられた部屋の中、私はそこで信じられない光景に釘付けとなる。カメの子が、のびきって死んでいたのだ。 死んだカメを取り出す指に触れた金盥の水は、すっかり湯に変貌を遂げていた。真夏の太陽の恐ろしさを、身にしみて感じた初めての出来事であった。
メダカの記憶 子供の頃、私は小川に遊びに行くことが多かった。当時は結構大きな小川だったように思っていたが(小川が大きいというのもなにやら妙だが)、大学時代に帰省したおり、その川を訪れてみて、あまりの小ささに驚いたものだ。小川も小川、オトナならば一跨ぎで越えられる程度のものなのだった。それでも幼児の私にとっては、大切な宝の川だったことは間違いない。 動きの俊敏な小魚は、当時の私にとっては幻の魚だった。きらめく魚影に、いったいどんな魚が泳いでいるのかと、わくわくしたものだ。とても捕まえることなんかできなくて、ただ想像するだけの存在だった。 それとは対照的に、メダカの学校は直接魚と触れ合えるとあって、私の一番の楽しみだったように思う。体長5ミリくらいの、目玉しかないような小さな稚魚を、そぉっと両手ですくってみては、ほぅっと飽きるまで観察していた。糸屑みたいにちっこく細い生き物が、この世に存在しているということ自体が何か魔法のようで、心惹かれていたのだと思う。 みこりんが小さなものに執着するのも、よくよく思い出してみると、自分の子供時代と変わらないのだなぁと、妙に納得してりして。 でも不思議と、このメダカの稚魚を飼った記憶はない。幼児ながらも、飼うには少々難しいということがわかっていたのか、あるいは、飼う必要性を感じていなかったか……。もしかして単に忘れているだけかもしれないけれど、気になるところだ。
ホネガイの記憶 子供の頃、私は貝殻を集めるのが好きだった。保育園の砂場で、ツノガイを集め始めたのがきっかけだったように思う。砂場を探し始めると、意外に変わった貝殻はあるもので、おまけに皆、小さく、幼児のコレクションとしては最適だったのだろう。集めた貝殻は皆、クッキーの缶に綿を詰めて、並べていた。この記憶はかなり鮮明だ。 というのも、貝殻収集の趣味は小学生の高学年、いや、中学生の頃まで続いたので、ずっとそのコレクションが保存されていたからだ(その頃には砂場で収集することはなくなっていたが)。 さて、砂場収集に励んでいた保育園児の私にとって、その日の出来事は衝撃的だった。場所はいつもの砂場ではなく、近所の小川。川岸の砂の上に、鮮やかな白い物体がぽつんとあった。急いで近寄り手に取る私。幼児の手には大きすぎるそれは、これまで見た事もない貝殻だった。 まるで櫛の歯のように、無数の突起が並んでいて、貝殻というよりは、何か別の生き物の骨のようでもあった。まさしくそれは“ホネガイ”であり、海から10キロ以上離れたこの小川にあるべき存在ではなかった。 憑かれたように、その貝殻を両手で抱えるように持ち帰った私は、さっそくコレクションの中央に、ででんと置いたものだ。他の貝殻が皆、1cm足らずのものばかりだったので、えらく目立った。この日からその貝殻は、私の一番の宝物になったことは言うまでもない。 その後も、かなり私が大きくなるまで缶の中に収まっていたことは覚えているのだが、ある日、気がついたときには忽然とその姿が消えていた。現われたときと同じくらい、唐突な別れ。ホネガイは消えてしまった。 そして今、貝殻はヤドカリ達のために少々ストックしているが、どれもみなおとなしいものばかりだ。とげとげの激しいものは、ヤドカリの移動には不向きなので、いたしかたない。ところでみこりんは貝殻を拾ってくることはないようだ。小さいもの好きのみこりんが、ちっこい貝殻に目を付けないわけはないと思うので、もしや昨今の砂場というのは、海砂ではないのかも?謎だ。
お水換え なんだかんだと遅れに遅れていた水換えを、本日実行。みこりんはLicに連れられて音楽教室に出かけている。家の中には、私と生き物たちだけが残っていた。外は雨、じつに静かな土曜の午後。 水換えといっても、海水2m水槽ではない。熱帯魚水槽と海水R360である。 熱帯魚水槽では水の蒸発が著しく、半分も残ってはいない。中の金魚達も、なんだか狭そうだ。緑苔もガラス面に少々。さっそくメラミン・スポンジでキレイにしてから、水をバケツで1杯分抜いた。いつもながらグッピーとブラックネオンが、ポンプの吸い込み口にふらふら〜っと吸い寄せられるようにやってくるので、吸い出してしまわないように気を付けて、と。 新しい水は、バケツに3杯必要だった。2杯分、つまり30リットルも蒸発していたことになる。おそるべき冬の乾燥だ。 海水R360の方は、毎朝差し水をしているので、水位の低下はみられない。こちらは海水なので、放っておくとすぐに比重が高くなってしまうため、差し水は欠かせないのだ。 茶苔に覆われつつあったガラス面を、きゅきゅっとこすってみると、中のライブロックと敷き砂にはまったく苔が付着していないことがわかる。照明も貧弱なのに、石灰藻はまだ十分に残っているようだ。長年敷き詰めてきたサンゴ砂がいいのか、微妙な水流がよいのか、ライブロックが当たりだったのか、とにかく調子はいいらしい。 水換えは終った。 雨のせいか、気温はいつもよりちょっと高め。川魚水槽でも、ちょろちょろとオイカワ達が顔を見せてくれている。手を入れても凍えない程度になれば、そちらの水換えもしてやらねばなるまい。
広々〜 水換えしてからというのも、みょーに空間が広々として見える熱帯魚水槽である。水量が元に戻ったからというのも、もちろんあるのだが、真の原因は水草にある。水槽の左半分に植えてあった水草が、きれいさっぱりと根こそぎ引っこ抜かれてしまっていて、水面付近にぷかりぷかりと浮いているのだ。そのせいで、下の方がすっからかんに空いてしまって、広く見えているというわけだった。 水量が半減していた間、金魚たちは行き場を失い、結果的に底の方に下りていかざるを得ず、水草はそのあおりをくって抜けてしまったと、そういうことになるのだろう。金魚のせいというより、差し水をさぼっていた私のせいだ。 もともとこの水槽の敷き砂の量は少ない。だから水草も抜けやすくなってはいたのだが、そろそろ抜本的な対策が必要らしい。砂、買ってこなくては。
カスミチョウの食事風景 今朝はなんだか、カスミチョウ達の餌食いが悪かったような気がする。いつものように水槽の前に立つと、“くれくれ攻撃”があったにもかかわらず、シュアーをひとさじ、ぱらっとやってみたところ、かなりの量が水底にそのまま落下していってしまったのである。いつもならばほとんど残り餌が発生しないこの水槽で、これは異常事態と言えた。 まさか体調を崩しているのだろうか。気になって2杯目は、小さな付属のスプーンに半分以下の量で、やってみた。じっと食いっぷりを観察してみる。 すると今度は、いつもと変わらぬ高速な食事を披露してくれた。さらにもう1杯。ふむ、すこーしだけ食べ方にむらがあるような気はするが、それほど心配することではないのかもしれない。ただ、この水槽では水換えをずいぶんさぼってしまっているので、そのことが気にかかる。水換えに欠かせない水中モーター用のホースを買ってきていないがために、いまのいままで水換えができずにいるのだが、もうあまり猶予はないかもしれない。 最悪の事態になるまえに、とっととホースを買ってこよう。今週末はこの水槽の水換えの日にしようと思う(…こういうときに限ってホースが売り切れていたりしそうで、ちょっと怖い)。
ヤドカリの住処 やはり海水R360水槽の中には、ヤドカリが2匹だけになってしまったらしい。消えたのは、最初から住んでいた白いヤツ。体の色に似合った白いお洒落な巻き貝の中に入っていたのだが、その貝殻が砂地に転がって、はや一ヶ月以上が経過しようとしている。別の貝殻に移住したことを期待していたが、目撃情報が皆無とあっては諦めるしかあるまい。 長らくその愛らしい姿で楽しませてくれたことに感謝したい。 残ったヤドカリ2匹は、今朝も元気に貝殻をガラスにかちゃかちゃ当てながら餌をついばんでいた。大きい方は、早くも貝殻が窮屈そうに見えるので、なんとか新居を探してやらねばと思っているところだ。春になれば、また名古屋港水族館にでも出かけて貝殻セットをゲットしてこなければなるまい。みこりんもあの深海ゾーンへと続く回廊の、暗がりにたたずむ古の潜水具セットのことを「もうこわくないもん」と宣言してくれたことだし。 春になれば陸ヤドカリ達も目を覚ます。貝殻は、いくつあっても足りないのだった。