2003.3.1(Sat)
『インフィニティ・ブルー』
みこりんの小さな手を引き、Licと共に訪れたのは、とある郊外型の本屋だった。すぐには思い出せなかったのだが、もうずいぶんと昔に、私はこの本屋に来たことがある。そのことに気付いたのは、2つある入り口の、奥まった方にある自動ドア付近にまで近づいてからだった。
そこには他の展示スペースとは異なるタイプの、天井まで達するような大型の書架が2つ並んでいた。最上段には、H.R.ギーガー等の大判画集が詰め込まれており、中ほどには科学書やSFといった、どちらかというと私になじみ深い本達で溢れかえっていた。そのうちの1冊が、なぜだか妙に気になったので背表紙を確認してみると、平井和正の本だった。しかしタイトルには心当たりがない。どうやら『インフィニティ・ブルー』の続刊らしいのだが、なぜそんな本がこんなところにあるのか。
ありえなかった。最新刊の『インフィニティ・ブルー』の続刊など、出ているはずがないのだ。
しかし私には、ふいに閃きがあった。この書架に並んでいる本は、私の本なのだ。前回、この本屋に来たとき、ここに蔵書を置かせてもらった…。記憶は一気に蘇る。当時、部屋に溢れかえっていた本のために、この親切な本屋さんがスペースを貸してくれたのだった。
どうして今までそのことを忘れていたのか。この本達と出会うのも、もうずいぶんと久しぶりだ。そろそろ引き取ってもいいころではないか。そう、私は思っている。
でも、このまま本をまとめて店を出ると、泥棒と間違われやしないか。前回の訪問から何年も経過してしまっていては、店員も私のことなど憶えていまい。
書架の前で苦悩している私の元へ、一人の女性店員がつつと歩み寄ってきた。「あの、」と話し掛けられた私は、なんだか見覚えのある顔だなと思った。そして、店員の語る次の言葉に驚愕する。なんと、このスペースを学生用の下宿に改築するので、そろそろ本を引き取ってくれないかと言うのだ。
おそるべき店員の記憶力に感謝しつつ、私は本をまとめにかかる。ところで、さっきからみこりんとLicの姿が見えないが、どこに行ったのだろう。…、そう思ったところで、映像は唐突に暗転、私は目覚めていた。
外は薄暗かった。雨は、明け方からずっと降り続いているらしい。頭の奥に、鈍い痛みがあった。とても寒い。
夢の中で、私が本をあずけたのは、実際、何年も前のことだった。独身な頃だったと思う。その夢の続きを、まさか何年も過ぎた今になって見ることになろうとは。
体中の関節が痛みを発していた。布団に丸まってみても、足先の震えはおさまらない。みこりんが一度様子を見に来てくれたが、熱があるようだとわかると、小さな自分用の毛布をかけて、冷えピタを額に貼り付けてくれた。ありがたやありがたや。
少し気分が持ち直してきたので、残りわずかとなった『インフィニティ・ブルー 下巻』(平井和正 著)の続きを読み始める。上/下巻合せて、VHSテープ2本分以上の厚味となるこの本も、もうじき終わりかと思うと、なにやら寂しい。もっと読んでいたい。しかし、何事にも終わりは来る。ついに、ラストシーンへ。
美しい、あまりに哀しくも美しい幕引きか。私はただ静かに目を離すことが出来ず、言葉の1つ1つを記憶に刻み込んでいた。言葉はイメージとなり、脳内で情景が鮮やかに再現される。この本は、早春の今こそ、読んでおくべき本にまちがいない。来るべき桜吹雪のイメージが重なった。はるか昔、学生街を歩く私の姿が蘇る。素晴らしい本だった。満足して、本を置く。
ふと、Licならばこの本のラストシーンをどう感じるのかということが気になった。速読のLicならば、ものの1日で読み切ってしまうだろう。ぜひ感想を聞いてみたいものである。
2003.3.2(Sun)
桃の雰囲気
ふわふわっと晴れ上がった日曜日、お雛様がお出ましになった。Licが大きな箱を抱えて運びこみ、みこりんと二人で組立てている様子。それにしても2体しか格納されていないというのに、箱の量がハンパではない。フルセットの雛人形ならば、いったいどれほどの収納スペースを必要とするのだろう…。
やがて完成した人形の前には、うずたかくお菓子の袋が積み上げられていた。双方の実家から、みこりん用に届いた雛祭り用の品々である。春らしい桃色で飾られたそれらは、みこりんの好奇心をおおいに刺激したらしく、普段はあまりお菓子の類を食べないみこりんをして、2袋もおやつの時間に完食したのであった。
おやつ休憩が済むと、も一度、外でみこりんと遊んだりしてみる。花粉の脅威はあるのだが、じっとしてはおられないほどの陽気に誘われて、ふらふら〜っとさまよい出でる。しかし団地内は、驚くべき静寂に包まれていた。昼間だというのに、なんとしたことか。他の家々に、まるっきり人の存在が失せてしまったかのような雰囲気である。
ヒヨドリさへも金切り声を上げないのでよけいに妖しい。ただみこりんの歓声のみが“こだま”する。
黄緑色した紫蘭の芽が、乾いた土の表面からぷくっと顔を覗かせているのを確認した。田んぼのあぜ道では、気の早い土筆の子がいるのではないかと思ってしまうほどに、春は近くまでやって来ているようだ。そろそろみこりんを連れて、初春の自然探訪に出かける頃合いかもしれない。
2003.3.3(Mon)
桃の節句
桃の節句ということで、桜餅など買って来てみたりしている。夕食後、さっそく家族で食べようとしたが、これは4個入りだった。我が家は3人家族なので、残りは何個?と、みこりんに質問してみたところ、「いっこ!」と元気よい答えが返って来た。うんうん、1個だ。
では、その1個をどうすればよい?続けて問う私に、みこりんは少し考え込んだふう。予想としては、即「みこりんがたべる!」になると思っていたので、少々意外。
やがてみこりんが言った。「これたべると、おおきくなれる?」
唐突な質問に、なんと答えたものかと迷ってしまったが、とりあえず無難なところで「そうだよ」と返してみたところ、急にみこりんの瞳がきらりんと輝き、こう宣言したのだ。
「だったら、これみこりんがたべる!」
だんだん己の主張を通す術を心得つつあるみこりんであった。日頃、肉や野菜やお米などを大きくなるにはいっぱい食べようねと、みこりんに教えている我々の理屈を逆手にとってくるとは。侮り難し。
でも結局、残った1個は、3人で3等分して食べたのであった。みこりんは等分というのも大好きなのだ。
ところで桃の節句は、なぜ祭日にならないのだろう。端午の節句を男の子の日にしてしまって、両方を祭日にすれば問題ないような気がするが。謎だ。
2003.3.4(Tue)
Opera
Opera7.02日本語版にバージョンアップしてみている。前版よりも、展開速度が心持ち早くなったような気はするが、正確に計測したわけじゃないのでなんともいえない。なにしろ我が家はADSLからは隔絶された、ISDN家庭なので、回線が遅いんだかブラウザが遅いんだか、その辺が曖昧なので、計測したとしても何を計測してるのかがあやふやだったりする。
まぁそれはともかく、ページ移動とか、マウスジェスチャーの応答なども機敏になったような気がするところは、よいことだ。“気がする”というのは、わりと私の中では重要な要素なので、今後も継続してこの新しいOperaを使い続けていこうと思っている。
2003.3.5(Wed)
侵入したヤツ
にゃんちくんの食事を、用意してやっていたときのことだ。ケージのすぐ脇に、なにやら小さな黒いモノが1つ落ちているのに気がついた。薄暗い照明の下では、その正体がすぐにはわからず、ついにソレに手を伸ばし、つまみあげる。
手のひらの上で転がしてみると、ころころと面白いように転がっている。ほどよい硬さだ。でも、感触としては人工物というよりは、生モノといった方がよい。硬さと弾力を併せ持った、米粒大の黒いモノ。蛍光灯直下で、しげしげと見つめてみると、半つや消しの表面には記憶をゆさぶるパターンが刻まれているのがわかった。
な、なぜ、こんなものがこんなところに。この黒い物体は、ほぼ間違いなく“糞”であろう。にゃんちくんのではありえない。これほどきれいにラグビーボール状をした糞の持ち主といえば、アレしか思い浮かばなかった。
ネズミだ。あるいはそれに類する生物であろう。
実際、サンルームに巣食っていたヤツの痕跡も、これとそっくりな糞だった。しかしなにゆえに1粒だけなのか。室内に侵入したのだとしたら、おそらくどこかに巣を構えているはず。…もしやそこをにゃんちくんが発見し、がさ入れでもしてきたのだろうか。あるいは逆に、ネズミがにゃんちくんの食事を失敬しているとか。
まだ台所で被害は出ていない。が、今後はヤツが出歩いていることを前提にしなければならないかもしれない。いずれにしても、一度その姿を見てみたいものだ。思いもかけないような生物が潜んでいる可能性を、なんとかしてゼロにしておかないと、ちょっと不安でもある。仕掛けてみようか、罠を。何が潜んでいるのか、確かめなくてはなるまい。
2003.3.6(Thr)
背後にあるもの
イラクを巡る反戦運動の何が胡散臭いかと言えば、反戦=反米になってしまっているように見えることに尽きる。そして国内に限れば、たいがいセットで“反有事法制”が掲げられているため、背後にどのような勢力がいるのかはおおかた想像が付く。
本当に“反戦”を望むならば、米国に対して要求するのと同じくらい、イラクの大量破壊兵器についても訴えかけねば、バランスが悪かろう。イラクは品行方正な国ではない。反米一色では、その背後にあるものが真の“反戦”とは、とうてい思えないのだ。東西冷戦の頃の反核運動を彷彿とさせるアンバランスさである。あの当時の反核運動は、米国(というか西側)の核についてのみ反対を唱え、ソ連や中国の北の核については沈黙を守った(今でもそうなのかもしれんが)。
旧態依然としたイデオロギーの対立は、消えるどころか、今も根深く生き残っているらしい。うんざりする。今回の出来事では、TBS系の報道が特に酷い。米国=加害者、イラク=被害者の単純な図式で、視聴者をたぶらかそうとしているように見えて仕方がない。要注意だ。
2003.3.7(Fri)
早朝の記憶
ひどく咳き込むみこりんの物音で、目覚めていた。起き上がったみこりんの背中をさすってやり、咳がやむのを待つ。落ち着いた頃合いを見計らって、寝かしつけ、掛け布団を深くかけてやってから、枕元の時計を見た。暗がりに慣れた目は、容易に時刻を識別することが可能だ。午前4時。真の目覚めまで、あと1時間もある。
微妙な時間だと思う。1時間早く起きて出張の準備にとりかかるか、寝直すか。もしも寝過ごしたら致命的だ。しかし、暖かな布団の誘惑は強烈だった。私は布団に潜り込み、瞼を閉じた。
本格的な睡眠は、幸いなことに訪れなかった。小刻みに意識が戻り、そのたびごとに時計を確認する。時間の歩みが、とてつもなく鈍くなっているような気がした。
それでもゆるやかに針は巡り、ようやく午前5時を迎えようとしていた。まだ目覚し時計の設定時刻には達していなかったが、私は意を決して布団から抜け出していた。スイッチをOFF にする。みこりんを起こすのは、出発の時でいい。
午前5時起床。通常、午前8時半起床の我が家においては、拷問に近い時間設定である。でも、なんとか起きることが出来た。運がいい。昨日は風邪の予兆を抱えて最悪の事態を考えていたが、今は頭痛の片鱗も残ってはいなかった。
Licは安全のため、リビングで毛布に丸まっていた。おそらく徹夜するつもりだったのだろう。駅までクルマで送ってもらうためには、Licの協力が欠かせない。
午前6時、数分前。すべての準備を終えて、Licとみこりんを起こした。みこりんは眠ったままでもクルマに乗せようと思っていたのだが、意外にはっきりと目覚めてくれていた。外がまだ薄暗いことを指摘して、朝になっていないのになぜ出かけるのかと、私に問うみこりん。でも、クルマで駅に向かう間に、すっかり太陽は山陰からその姿を現していた。みこりんも“朝”がどんなものか、よく理解できたことだろう。
駅、到着。みこりんにバイバイして、仕事に向かう。毛布でぐるぐる巻きのみこりんは、バイバイ返しを試みるも、もぞもぞと手が収納されている辺りがわずかに動いたのみ。電車の中で、その光景が何度も再生されていた。たぶん、この記憶はずっと残りそうな予感…。
2003.3.8(Sat)
大根いろいろ
花桃の足元で、すくすくと緑の葉っぱを伸ばしつつあるチオノドクサが、これまたわさわさと繁茂しはじめた雑草に埋もれようとしていた。手遅れにならないうちに、雑草を抜いておく。庭土の上にも、緑が増え始めていた。そろそろバッタの子供たちが顔を出しても大丈夫。
Licから、夕食用に大根を抜いておくよう言われていたので、みこりん共々、裏庭の菜園1号にやってきた。葉っぱの小振りな方が“おでん大根”、その背後で大きく構えているのが“聖護院大根”。手近な方にあった“おでん大根”を1本、みこりんに抜いてもらうことにした。土から伸び上がるように露出している乳白色の肌は、普通にスーパー等で売ってるタイプのものより、かなり細い。みこりん一人で大丈夫だろう。
気合いと共に、みこりんが両腕に力をぐぐっと込める。すると、大根はあっけなく“すぽっ”と、抜けた。あやうく尻餅をつきそうになるみこりん。抜いたばかりの大根を見て、みこりんはけたけたと笑った。長さ15cmほどの可愛いサイズだったのだ。
家族3人分にしてはちょっと足りないような気がしたので、もう1本収穫しておいた。あわせて2本の“おでん大根”を抱えて、台所へと持っていく。もちろん葉っぱもつけたままだ。
ところがLicによれば、まだ足りないらしい。再度、菜園に戻ってみたが、おでん大根はさっきのでおしまい。残った大根で食べられそうなのは、聖護院大根だけだった。が、こいつは下半身がすっぽりと土の中に埋まっていて、しかもはや花芽が上がってきている。根っこが肥大してない可能性もあり、大丈夫なのかと、かなり不安なところはあったが、意を決して抜いてみることにした。それにしてもなんというごっつい葉っぱだ。大人の親指よりも幅広の茎がにょきにょきと生え、濃い緑の葉っぱがわさわさと茂っている。とてもみこりんの手に負えそうにないので、私がやることにした。
ぐぐっと引いたが、びくともしない。地上部の暴れ具合は伊達ではないようだ。そこで、ぐりぐりと捏ねて、渾身の力を込めて引っ張った。まるで大地が一緒に持ち上がってきたかと思うほどに、ぶわっと盛り上がってゆく。おぉぉ、手応え十分。
ずぼっ、と抜けた大根は、ハンドボール大の玉に育っていた。過去の実績よりはやや小さめだが、このくらいあればさっきのと併せて3人分には足りるだろう。これまた葉っぱをくっつけたままLicの元へ。
種類の違う大根を混ぜることについて、少々懸念を示されてしまったが、煮物に使うのであれば問題ないはずということで、料理してもらうことにする。
*
根っこ部分を切り離すのに、えらく苦労したらしい。それほど堅くなっていたということなのだが、幸いにしてたっぷり煮込めば食べるのに不都合はなかった。心配していたスも入ってなかったし。葉っぱの方も、これまたかなりごわごわだったのが、魔法のように柔らかくなっていた。気合いの煮込みである。
菜園に残った大根はあと5本。桜の咲く頃までには、すべて食べ尽くしてしまうだろう。春からの野菜の準備にも、そろそろ取りかからねばなるまい。
2003.3.9(Sun)
お散歩
窓から見た感じでは素晴らしい晴れ具合だったが、一歩外に出てみれば真冬の冷気。しかも風がびょうびょう吹きすさび、体感温度はさらに下がる。真冬仕様の防寒着に身を包まねば耐えられないほどだったが、みこりんはと見れば、長袖に、薄いウインドブレーカーを羽織っただけの、私から見れば“軽装”である。これが若さというものか。などと感心しつつ、家を出た。
予定通り、みこりんと共に麓までお散歩である。
自転車に乗ったみこりんは、歩道を軽快に下りて行った。ブレーキの掛け具合も、ほとんど問題無いようにみえる。ただ、四つ角などで歩道を乗り越えて横断するときに、苦労しているようだ。補助輪があるばかりに、押して歩くのが難しいらしい。
それでも三輪車時代に比べると、はるかに短時間で山の麓まで下りてくることが出来た。用水路に沿って、ぐるっと一回り。無数に落ちている栗のイガに、みこりんが果敢にアタックしてみたものの、さすがにこの季節、なかなか“実”には当たらない。たぶんアライグマにでも食べられているのだろう。「みつからんねぇ」と呟きつつ歩いて行く我々の前に、きらりんと輝く茶色の実、登場。さっそくみこりんは大事そうに拾い上げると、ポケットにしまいこんだ。
栗の実が落ちていた辺りには、ドングリも無数に転がっていたが、こっちのほうにはみこりん、あまり興味を示さなかった。というかまるで眼中にないかのよう。みこりんには、もっと気になるものがあったのだ。
斜面の上の方を指差して、みこりんが言った。「あれはなに?」
その方向を見上げて、私も初めてそこにそんなものがあったことに気がついたのだった。
薄緑色の、大きな石が立っていた。石碑らしい。表面に何か文字を刻んでいるようだが、ここからではよくわからない。足元にはコンクリートで固めた階段があって、その石のところまで上れるようになっていた。
みこりんが見たがったので、2人して階段を上がって行った。かなり急な階段だ。みこりんが落ちないように、慎重に慎重に。
土台もコンクリートで固められていたので、古いんだか新しいんだが、いまひとつはっきりしない。石の表面に刻まれた文字は、さほど風化したようには見えないので、何百年もは経っていなさそうだが…。かといって昭和の時代とかでもなさそうな。石の表面に一行だけ刻まれた文字がすべてで、その他にこれを説明するものが何一つないのが、かえって不気味でもある。刻まれた漢字の意味するものを理解しようと試みたが、即座には解読不能な難解さ。固有名詞が入っているらしいのだが、それがいったい何を意味しているのかわからないのが致命的。
みこりんは、この石碑が何のために立ってるのかというのを知りたがったが、碑文が読めないため正確なところは私にもわからない。そこで、うちにある神棚みたいなものだと説明しておいた。それでみこりんも納得してくれたようだ。
階段を下り、山際の道を歩き始めるみこりんと私。土手を注意深く観察してみたが、ツクシの子は発見できず。まだ早いようだ。向かいの山の方まで足を伸ばすつもりだったが、みこりんは面白いモノがなさそうだと思ったのか、公園に行きたがった。山の探検はツクシが生え始める頃にして、みこりんの希望通り、公園に向かうことにする。風は相変わらず冷たかった。
公園は、まったくの無人だった。しかし、足を踏み入れてすぐに、それに気がついた。前方に何かある。広い空間のただ中に、なにやら黒っぽい物体が1つ。ゆるく曲線を描いて横たわっているのだった。な、なにやつ。
無人の公園で、我々を出迎えてくれたのは、どでかい“糞”だった。む、むぅぅ。
踏まないように遠回りして遊具まで辿り着くと、みこりんは鉄棒で逆上がりを一発決めてくれた。それがどれほどすごいことかというと、その後、何度挑戦しても二度とできなくなってしまったことからもわかる。まさに奇跡の一発だったのだ。みこりん自身も不思議がっていたが、一度でも出来ればあとはコツをつかむだけ。桜の咲く頃には、何度でも披露してくれるようになっているにちがいあるまい。
2003.3.10(Mon)
電子書籍端末
設定温度45度で沸かした風呂に、鼻の下までぬくぬくとつかりながらふと思う。あぁ、この状況で本が読めたらどんなに幸せか、と。
Licは器用に本を風呂に持ち込んで読んでいたが、私には本を濡らさずに読む自信がない。濡らさないまでも、本が湯気で湿気てしまいそうだ。やはりこういう場合は、生活防水の施された電子書籍端末が便利そう。従来型の電子書籍端末(PDAタイプの液晶1面型)にはあまり魅力を感じなかったのだけれど、最近どこかのTV番組で両開きタイプの端末が、いよいよ登場するとかなんとかやっていたような気がする。試作品を見た限り、なかなかよさげな感じだったが、その後音沙汰がないのが気になるところ。
大量の本の置き場所を気にすることなく、絶版も気にすることなく、データとして格納しておけばどんな本にもなる電子書籍端末。なぜゆえに普及しないのか。本を読む側にしてみれば、何のデメリットも存在しないように思えるのだが、供給する側でいろいろと紆余曲折があるのかも。まず本を印刷する必要がなくなるので、それで飯食ってる人たちが困るわな。流通関係の人もいらなくなるし。
本当にそんな理由なんだろうか。単に新しい事への業界側の拒絶反応が強すぎるだけってこともあり得るな。風呂の中でゆったり本を読める日は、いつのことになるのやら。
2003.3.11(Tue)
根気
SETI@homeが始まった当時は、会社のPCにクライアントソフトをインストールして実行させていたものだが、いつのまにか止めてしまっていた。自宅のPCも、現在は常時起動しているのはLicのやってる『アッピー』か、私のやってる動画変換処理、になってしまっている。常時起動しているPCは他にもまだあるので、そいつにSETIらせてもいいのだが、ついつい明日やろう次やろう、と延び延びだ。
薄々感づいてはいたのだが、私は結果のなかなか見えない根気のいる作業が、かなり苦手らしい。逆に言えば、何か画期的な前進があれば、たぶん今夜にでも再開するような気がする。でもまぁ思い出したのも何かの縁かもしれないので、週末にでもインストールしてみようかなと思っている。空いたマシンパワーをただ温存するだけというのも、もったいない話だし。私の生きてる間に、何か結果が出ればめっけものだ。
2003.3.12(Wed)
タイマー録画
PCで録画するようになってからというのも、ビデオテープの山を心配しなくてもよくなったのは大いなる前進だ。しかし、困ったことが1つだけある。それは、ビデオキャプチャ用のソフトウェアが、タイマー録画に対応していないので、録画開始時には常にPCの前でスタンバイしていなければならないということだ。
これが簡単なようでなかなか難しいということを、最近立て続けに録画開始のタイミングを逃したことで身にしみて感じている。いつも1分前くらいには「そろそろ録画開始だな」と神経もぴりぴりしてるのだけれど、それが食事の最中だったり、こうして日記を書いてる途中だったりすると、ついうっかり録画開始のことを忘れてしまって、気が付いたときには始まっているのだった。
あるいは真夜中に録画したいものがあっても、いつもいつも徹夜できるわけでもなく、そういう時には仕方なくいったんテープに録って、再度PCにて録り直すという二度手間をやらねばならない。
不便すぎる。
録画終了の時間は指定できるのに、なぜに開始時刻を設定できないのか。ぜんぜん難しいことじゃないのに、どうしてその機能がついていないのか理解に苦しむ。アナログ入力のキャプチャソフトには、なんだか普通にタイマー録画の機能がついてるような感じなのだが、なぜDV入力対応のものにはついてないのだろう。もしかするともっと便利なキャプチャソフトがあるんだろうか。…ないとみんな困るだろうしなぁ。きっとあるに違いない。と思いつつも、いまだ見つけられずにいる。なんとかせねば。
2003.3.13(Thr)
ネットワーク利用
『リズムフォレスト』というネットワークゲームの月額使用料の一部が、植林活動資金になるという仕組み。森は好きなので、参加してみてもいいかなと思うのだが、我が家の場合、ISDNというのがネックとなる。じつに残念だ。
でもこうして木を植えて行ったとしても、大量消費社会をなんとかしないと焼け石に水なんじゃないかという心配もあり。まぁなんにもしないよりは、少しはマシなのかもしれないが。
*
マツモトのWebサイトで展開されている卒業アルバムに付随したサービス。卒業アルバムに載せられなかった写真等を、Webサイトで提供しようというもの。ついでに卒業生向けのBBSなんかもあるような雰囲気。時間と空間を考えなくともよいネットワークの利点に目をつけたところはなかなか興味深い。でも、このサービス、未来永劫ずっとサーバを公式に運営していかねばならないので、結構大変かもしれない。それとも卒業から10年とかの期限があるんだろうか。
とはいえ、クラスに1人くらいは同窓会用のサイトを立ち上げるヤツとかいそうだから、非公式にはコミュニケーションの場は維持されてそうな。実際のところはどうなんだかわからないけど。案外、いつでもコンタクトできる状況っていうのはデメリットになりそうな予感も少しあり。
2003.3.14(Fri)
にゃんちくんのこと
にゃんちくんが、Licの膝の上でこれ以上ないくらいに目を細めてくつろいでいる。私の膝の上よりも、Licの上の方が気持ちいい、ということに最近目覚めたようである。以前ならば私の膝の上になんとかして乗ろうとしたものだが、近頃はさっぱり寄って来てくれないし。
時折、にゃんちくんはLicの腹に沿って伸び上がり、顔を上向きにして、何か物言いたそうにLicの顔を見たりしている。そんな時のにゃんちくんは、猫というより、なんだかヒトっぽい。ふにゃっとした仕種が、母に甘える幼子みたいな感じで、思わず見ているこっちまで顔の筋肉がゆるむほど。
たまに爪を伸ばしてしまい、Licのパジャマにひかっかって困ったような表情をするときもあるけれど、そういうところも複雑な精神状態を垣間見たようで興味深い。
ところで昨年の夏あたりから、うちの近所をうろついている野良猫の中に、にゃんちくんそっくりな毛色をしたやつがいるのが気になっている。野良らしく、痩せて薄汚れてみすぼらしいのだが、白を基調とした洋猫の雰囲気と、尻尾に入ったグレーの縞々はどうみても遺伝子の類似性を考えざるを得ない。もっとも、猫はクローンにしても毛色は異なるらしいから、ただの偶然の一致というのもアリかもしれないが、このあたりの野良猫は大部分が三毛やら雉虎であることを考えると、ひょっとして本当に血のつながりがあったりして。
一度その野良猫が玄関の中に入ってきていたことがあるのだが、他の野良猫に対しては普段なら無視を決め込むにゃんちくんが、珍しく「なー、なー」と反応していたのも気になるところだ。何か感じる部分があったのだろうか。
一冬越えて、そのにゃんちくんそっくりな野良猫は、今でも時々姿を見掛ける。その痩せ衰えた姿は痛々しいが、もはやどうにもできない。できれば生き長らえて欲しいと思いつつも、野良猫であるがゆえに、それは困難な道であろうとも思う。どっちが猫にとって幸せなのか、というのはヒトである私に本当のところはわからないが、私にとってのにゃんちくんとの出会いは幸せだった。にゃんちくんも、そう思ってくれていればよいのだけれど。
2003.3.15(Sat)
『プチカ』
この春から、みこりんに学研の『幼児のかがく図鑑 プチカ』を買ってやることにしている。その第一弾である4月号が、本日到着。さっそく付録を開封にかかるみこりん。本文よりも、付録の方が気になるらしい。
今回の付録は“リーフレタスの栽培セット”だ。ナスタチウムの種も、くっついている。
レタスの種は好光性、土を被せてなくても発芽する。それを利用して、付録では水を吸わせたスポンジマットの上にリーフレタスの種をまき、発根から発芽までのすべてのプロセスを観察することが可能となっているのだ。
栽培セットを自力で組立てたみこりんは、一日に何度も種の様子を覗きに行っていた。これまでみこりんと植物の種をまいたときでも、これほど種まき後のことを気にかけた事はなかったような気がする。すべてを自分でやったということと、種に土が被さっていないことが、みこりんの好奇心を刺激しまくっているのだろうか。いずれにしても、よい傾向である。
ところでナスタチウムの種だが、これまで私は一度も発芽に成功したことがない。こぼれ種で自然に発芽したことはあっても、自発的に種まきしたものは、ことごとく腐ってしまった。今回みこりんが種まきしたら、はたして発芽するのかどうか、とても気になるところだ。もしも無事に発芽したとしたら、今後はみこりんに種まきのすべてをまかせてもいいかなと思うのだった。
2003.3.16(Sun)
春準備
雨の予報だったが、午前中は晴れ。その間隙をぬって、“あまいえんどう”の種まきをした。私が5つのポリポットに培養土を詰めると、みこりんが2個ずつ種を埋めていくという按配だ。
種まきの終ったポリポットは、サンルームに戻すと、いつぞやのようにネズミに豆を食われてしまうかもしれないので、そのまま外に置いておく。カラスやヒヨドリの餌食になる可能性もなきにしもあらずだが、とにかく発芽しないことには始まらないので、ネズミは避けておきたいところだ(たぶん鳥は発芽してからの方が危険)。
スイートピーの苗が、ポットの中でからっからになりつつあったので、水をやったあと、花壇の方に定植した。日中は、春の日差しであることが多くなって来たので、そろそろ大丈夫だろう。というか、ちょっと出遅れたかもしれない。ポットの中では、太い根っこが行き場を失ってとぐろを巻いていたのだ。
春の訪れはじつに早い。裏の菜園2号では、いつのまにやら赤カブに花が咲いていた。こうなってしまっては食べるわけにもいかないので、このまま種取り用に面倒みようかと思う。
パターン
五目並べを、みこりんに教えてみた。最初みこりんは、囲碁の要領で繋がった石をすべて数えてようとしていたが、やがてルールを把握したらしい。着実な手で攻めてくる。
2戦して、2勝0敗。私が、ではなく、みこりんが、だ。途中、確実に勝てる手を、あえて使わなかった一度を除き、私はけっこう本気で勝負してみたのにこの有り様である。なんということか。やはりみこりんは、こういうパターンモノが得意なのかもしれない。
でも、みこりん的には五目並べよりも、囲碁の方が好きらしく、2戦しただけでおしまいとなった。ところで最近のみこりんは、負け始めると勝負を投げてしまう傾向が強い。なので、最後の方でみこりん大逆転というパターンを用意してやることが多くなった。みこりんとゲームするのも、単純に楽しむだけでは済まない今日この頃である。
2003.3.17(Mon)
開戦前
結局のところ、12年間、国連決議が反古にされ続けてもどうにかなっていたのは、イラクが今より劇的に変化しさへしなければ、つまり自国にとって極端に脅威とならない限りは、どうでもよかったんだろうな、と思う。現状維持が一番、あえて苦労を背負い込むことはしないが一番。アメリカも、以前ならばそうだったのだろう。それゆえの12年間だったはずだ。
今回、フランスをはじめとした反戦を主張する国々は、イラクに対して有効な策を、最後まで打てなかった。いや、打とうとしなかったように見える。ここにきてイラクにミサイル破棄等の姿勢が見えはじめたのは、朝日新聞社説でも述べているとおり、米英軍の圧倒的軍事力が背景にあることは、否定できまい。ここが私にはとても重要な分岐点だったように思う。もしも本気の軍事力を背景とせずに、査察が成功裏に進む可能性をフランス等が、いや反戦運動に参加した人達が示し得ていたならば、ここまで話しはこじれなかったのではないか。軍事力による威圧なしに、イラクに有効な査察を続行させることが、本当に可能なのか。話し合いで解決できるはずだという反戦デモにおける主張は、私にはまったく説得力をもって響いては来なかった。“平和的な話し合いで解決”とは、つまり現状維持でしかないのではないか。その疑問は、結局、解決することなく時間切れとなったようである。
ところで、圧政からの解放を民衆が求めることによって発生する武力闘争を、私は是とする。しかし、反戦運動家たちは、あらゆる暴力を排除しようとしているし、一部のニュースキャスターも平然とそういうことを口にする。圧政下の民衆は、どうでもいいのかと思う。たとえば、南アフリカにおいて解放運動で武力闘争を指示したネルソン・マンデラ氏を、自由と平和の象徴のようにいっていた人たちが、今回反戦を口にするこの矛盾。
平和平和と唱えているだけじゃ、平和は来ない。この当たり前のことが、通用しない人たちは、まだまだ多いようだ。
他国でどのように酷い人権抑圧、惨殺、拷問、飢餓が起きていようと、内政干渉しないのが、ほんとうに正しいのか?それは単に見て見ぬふりをする、事勿れ主義であり、人としてやってはいけないことなんじゃないのか。生まれた国が不幸だった、で、すべて済ませてしまうつもりなのか。“地球人”として、そういう考え方は、もはや古いと、私は思うのである。だからこそ、その決定プロセスに多くの国が参加できる環境として国連は重要な役割を、今後も与えられ続けるべきだった。しかし、それも今回のことであやうくなってしまった。大国だけの論理で、戦争が始まってしまう。その一因には、なにがなんでも反戦という反戦原理主義の悪しき結果も、もちろん含まれる。アメリカの視野狭窄も悪いが、フランス政府の責任も、また同様に重い。
経済封鎖の結果、収入が限られたイラクは、国民に等しく分配するべきところを、軍事力増強に使ってしまった。その結果、多くの子供たちが死んで行っている。毎年、湾岸戦争における戦死者以上の子供が死んでいる(と、ABCニュースでは述べていた)。もしこれが本当ならば、戦争でフセイン政権を倒せば、戦争の被害を上回る生存可能者が出て来ることになるのではないか。いずれこの問題は、北朝鮮にも適用されるようになるだろう。そのときも、やはり無条件に反戦なのか、それとも民衆の解放なのか、そう遠くない将来、我々は決断しなければならないだろう。
2003.3.18(Tue)
月光
真夜中、サンルームの扉を閉めるためにリビングから出てみると、目の前は蒼い光に満ちていた。天頂付近に上った月が、煌煌と庭を照らしているのだ。星はほとんど見えない。月光にすべてが覆い隠されていた。
月面の濃淡を見上げ、静かに息を潜めてみる。物音を立てるのに、ひどく勇気がいった。
広大な砂漠に浮かんだ小さな月のイメージが、頭の中に湧き起こる。やっぱり遠い遠い国の出来事だなと、改めて思うこの静けさに、ささやかな幸せを感じてしまった夜のことであった。でも、いずれそうもいっていられなくなりそうな…
2003.3.19(Wed)
春の風まだ遠く
「みてっ」と、みこりんが窓際に立って私に声をかけた。そこには陸ヤドカリのケージがあり、その金網の上に乗っているのは『プチカ』の付録でついてきた“リーフレタスの栽培セット”。種まきからおよそ4日が経ち、種は見事に発芽していた。
もこもこの根をスポンジにしっかりと張り、まだ種の皮をかぶったままの芽を、ぴんっと上に立てて伸びている。みこりんは「まだこれは、たべられん〜」と残念そうだが、じきに双葉が展開するだろう。間引き菜を味噌汁に入れてよし、サラダにしてよし、リーフレタスの使い道はいろいろある。
さて、残るナスタチウムの種は、桜が咲く頃にまくことになっている。肝心の桜の開花予想は今週末だが、染井吉野の花芽はまだまだ固くしまったままのように見える。この分ではあと1週間たっても咲きそうにないような気もするが、もしかして今年の開花は遅れるのかもしれない。
春一番はすでに彼方へと去ってしまったが、私の待ち望む“春の風”は到着が遅れているようだ。桜の花と共にやってくるつもりなのかもしれない。待ち遠しい。待ち遠しいぞ、“春の風”。
2003.3.20(Thr)
夜の放送
布団に潜り込み、サイドボードに乗った小型TVの電源を入れる。布団の中は、いつになく冷え冷えとしていて、足先が凍えるように寒かった。薄暗い画面の中では、バグダッドのライブ映像が小さく映っている。対空砲火の光が暗闇に時折出現したり、火花と共に背景の建物が崩れ去ったり…。そんな映像を、ただぼんやりと見つめていた。
何かのSF小説で、こんな世界設定があったような。あらゆるところに報道用のカメラ(自律飛行可能)がいて、どんな映像でも望めば見ることができる世界。もっとも、今回の戦争では肝心なところは隠されてしまうのだろうけれど。
徐々に重くなってくる瞼と、見届けなければという奇妙な意識との狭間で、記憶もかなり途切れがちになっていた。みこりんを起こさないように音量を絞っているため、よくは聞き取れないのだが、地上戦が始まったとか話しているようだ。あぁ、とうとう始まったのだなと、思ったところまでは憶えている。そこからの意識は曖昧だった。
*
「せんそーはんたーぃ」というのは別に構わんけど、「もし日本が他国に侵略されても戦わずに殺されてもよい」という奇妙な理屈を押し付けないでほしいもんである。自分で勝手に殺されるのはいいけど、それを「せんそーはんたーぃ」と同様に他人に強いるような真似だけはしないでくれ、たのむから。
2003.3.21(Fri)
遊びのてんこもり
ビニール紐を三つ編みして、みこりんが作ってくれた縄跳びを手に、家の前の歩道に出た。みこりんの手にも縄跳びがあり、二人して向かい合い、縄跳び競争。三つ編みになっているとはいへビニール紐はそよ風に舞い上がるほどに軽く、これで縄跳びをするのはかなり腕の振りを大きくしなければならなかったが、意外に跳べるものである。
みこりんの調子に合わせて、前跳び、後ろ跳び、あや跳び…。いつのまにかみこりんが後ろ跳びまでマスターしていることに驚く。保育園での練習の賜物だろうか。あや跳びは、まだ腕をクロスさせたまま跳ぶには至っていなかったが、どうやればよいかは、正しく理解しているようだ。いずれあや跳びも、モノにしてしまいそうである。
それにしても縄跳びは、結構体力を消耗するものだと改めて思う。ほとんどみこりんと同じくらいしか跳んでないのに、はや息が上がってしまっていた。どっちかというと、みこりんの方がまだ余裕がありそうな。この冬、家でごろごろしていた罰が当たっているのだろう。こんなにも体力が衰えてしまっていることに、恐怖する。な、なんとかせねば…。
へとへとになり、水を求めて家の中に駆け戻ってようやく一息ついたころ、みこりんは次の遊びに移ろうとしていた。玄関前には、バドミントンのセット、凧などが並べられており、これらを順番にこなしていくつもりらしかった。
あいかわらずバドミントンでは、ラリーが続かないのだが、みこりんは十分満足しているようだ。落ちた羽根をどっちが先に拾うか、なんてことでも遊びになるらしい。私はそのあいまあいまに、花桃の足元で葉っぱを伸ばしている球根植物達の様子を観察していた。
ピンク色の花を咲かせるチオノドクサに、充実した花芽が確認できる。去年の今ごろは既に開花していたと日記には記してあるので、今年の方が少し寒いのかもしれない。花桃の蕾は、中心部分がやや開きつつあったが、開花に至るにはまだ1週間以上かかりそうだ。
みこりんとは結局、夕方近くまで一緒に遊んだ。久しぶりに時間の経過がゆっくりとした感覚を味わうことができて、私的にもいい午後だったと思う。
2003.3.22(Sat)
『バチガミ』
二日続けてお昼まで寝てしまったが、なんだかあまり休んだ気がしない。体の節々が痛むのは、もしや昨日の縄跳びの影響なのか。もろい。もろすぎる。
足をややひきずり加減に階下へと降りてみると、玄関のところに、長さ1mはあろうかという細長いダンボール箱が置いてあるのに気が付いた。国華園に注文しておいたサクランボの苗が届いたようだ。最近、種やら苗やらが立て続けに到着しつつあり、冷蔵庫の種入れも、ぱんぱんである。種まきが待ち遠しいことよ。
そのダンボールの横には、小さな小包が1つ。こちらはBK1に発注していた本である。平井和正の『時空暴走気まぐれバス』と『バチガミ』が入っているはずだ。思い付いたときにこうして買っておかないと、入手不可能になってしまうので油断できない。
午後、PCの動画変換環境のトラブルに対処しつつ、みこりんとも遊び、ついでに『バチガミ』も読む。もともと同時進行する作業には向いていない私の脳なのだが、最近、仕事でそうもいっていられないため、少しは強化されたらしい。
しかし『バチガミ』には、してやられた。この先いったいどうなるのか、と思う存分期待して、最後の最後に突然終わる。中断である。そして続きはないらしい。そんな殺生な。
2003.3.23(Sun)
明け方まで
真夜中過ぎから始めたLinuxマシンへのHDD増設は、物理的に装着スペースが足りなかったりして、予想外に時間を食ってしまっていた。結局、CDドライブを1つ上にやり、FDDを空いたその部分にスペーサーをかまして無理矢理くっつけ、あとは2つのHDDを玉突き状に1つずつ上に移動、こうして確保した一番下のスペースに新規のHDDを装着することで解決した。
電源コネクタが足りなくなったため、CDドライブの分を取外して使った。いずれ分岐用のコネクタを買ってくるまで、CDドライブは役立たず。このマシンはサーバ用なので、これでもあまり実害はない。
ところで新しく装着したHDD(120GB)は、動画格納用に使用するつもりだったのだが、これまで録り溜めていた動画ファイルを一気に移動した結果……、あっというまにパンクしてしまったのであった。とっととDVDに焼かねばなるまい。焼かねばならないのだが、今はそのための時間がぜんぜん足りない。おそるべき動画変換無限地獄である(マシンパワーが今の10倍くらいになったら、こんな状況は昔話になるのだろうけれど…)。
気が付けば、外はすっかり夜明けを迎えていた。部屋の灯りを消しても、ぜんぜん苦にならないほどである。…「寝よう」布団にもぞもぞと潜り込む。みこりんもLicも、心地良さそうな寝息を立てていたが、やがて…
ツクシ摘み
みこりんが起床した。私は結局、30分ほどまどろんだだけで起き上がらねばならなかったが、不思議と眠気は感じなかった。窓の外の、素晴らしい晴れっぷりのせいかもしれない。
正午きっかりに、みこりんと共に家を出た。こんな陽気の日には、お散歩するに限る。途中、みこりんの希望で公園に立ち寄り、軽くフリスビーで駆け回っていると、自転車で男の子登場。みこりんのお友達だった。こうなると、あとは子供達だけで遊ばせておいて、私はベンチにでも腰掛け、見守るに徹することになるのだが、今回は少し様子が違っていた。男の子が「ウルトラマンごっこしよう」と言うのだ。もちろん私が怪獣役である。みこりんも、すっかり乗り気だった。
みこりん相手に“ウルトラマンごっこ”するときには、私が“セブン”で、みこりんが“ゾフィ”という変則タイプでやっているため、怪獣役というのは不慣れであった。とりあえずダッシュで逃げていると、「たたかわなきゃだめ」と指摘が入る。仕方あるまい。私は男の子の両脇下に手を入れると、ぐるんぐるん回転させてやった。
そんなことを5〜6回繰り返したあと、私は“やられて”やった。ベンチに“どう”と倒れ伏していると、上から乗られてがんがんパンチが飛んでくる。さすがに男の子は元気がよい。みこりんはもっぱら見えない“光線”を撃ってくるので、直接的な被害はまったくなかった。じつに対照的だ。
ひとしきり遊んだところで、公園をあとにする。ツクシ摘みに行くのだ。
みこりんが誘ったので、男の子も一緒についてきた。補助輪なしの自転車で道路を縦横無尽に走ってるのだが、それがまた飛び出しなんか平気でやったりするのでじつにあぶなっかしい。みこりんが何度も注意してあげてたが、聞く耳はないらしい。これもまた男の子だからかもしれないが、いつか事故りそうな…。
団地を下まで降りきったところに広がる田園地帯が、ツクシ摘みの場所だった。昨年もここでたくさんのツクシを摘むことができたが、はたして今年はどうだろうか。あぜ道に踏み込んでいくと……、あったあった。にょきっと小さな頭が枯れ草の隙間から覗いている。みこりん達も歓声を上げて摘みにかかった。でも、数はとても少ない。しかも、いずれも4cm以下というありさまだった。
ずぅっとあぜ道を歩いて歩いて、ひたすら探してみたものの、やはりほとんどツクシは生えてはいなかった。おまけに土手のところが新たに土で固められている所が多く、そのこともツクシ発見を困難なものにしているようだった。
まだツクシの季節には早いらしい。みこりんの袋には、ツクシが4本入っていたが、これ以上増えそうにはなかった。そろそろお腹の虫も騒ぎ出しそうな予感がしたので、撤収しよう。みこりんはすんなり同意してくれたが、男の子はまだ摘み足りないらしい。たまたま同じ場所でツクシ摘みしていた他の親子グループに友達がいたようで、そっちに行ってしまった。思い起こせば私がみこりんくらいの年齢の時には、この男の子と同じように一人(あるいは同年代の友達と)で近所の山や川で遊んでいたような気もするが、現代においては少々危険なのではと思ったりもし。
帰りの上り坂は、みこりんの脚力では自力で登りきることはできなかった。補助輪がついているので、押して歩くことも難しく、結局、私が後ろから押してやることになった。みこりんが一人で自転車に乗って遊びまわるには、まずこの坂道を克服せねばならない。かなり困難な壁のように思えるが、果たしてみこりんは今年中に、この壁を乗り越えることができるだろうか。
春からは保育園でも自転車乗りの練習が始まるらしい。案外、早くにその時はやってきたりするのかも。
2003.3.24(Mon)
夜毎の録画
ここ数ヶ月というもの、連日のように深夜1時からの放送をPCで録画していた『スタートレック/ヴォイジャー』が、ついに今日で最終話を迎えた。タイマー録画ができないために、夜な夜な1時まで起きていなければならないというプレッシャーとストレスは、想像以上に私を苦しめていたらしい。今宵2時、録画終了と同時に、両肩から10tの重りが霞のごとく消え去ったかのような、清々しさがあった。あぁもうこれで眠い時には早く眠ることができる。無理やり起きていなくてもよいのだ。
エンドレスの動画変換作業からも、これで解放される。あとはDVDに焼いてゆくだけで、HDDの空き容量はどんどん増える一方になるわけだ。すばらしい。
今回の『ヴォイジャー』は録画し始めたのが136話からなので、次の再放送では足りない分を1話から録らなければならない。再放送も近いのだが(スーパーチャンネルはここ数ヶ月スタートレック強化月間らしい)、それまでの間、しばしこの自由を満喫しよう。
ところであさってからは『スタートレック/DS9』の再放送が始まる。しかし、これはパスしようかと思う。過去にビデオで録画した時にも、途中はパスして第5だったか第6だったかのシーズンになってはじめて真剣に見始めたくらいだから、そのくらいからでも遅くはない。
さて、『ヴォイジャー』全172話分をDVD-Rに焼くとして、いったいどれだけのお金がかかるかというと…、1枚のDVD-Rに2話入るから86枚、DVD-Rの5枚入りパッケージが1700円だから、(86/5)*1700=29240円だ。最近はHDDの値下がりもすさまじいものがあるから、じつはHDDに保存したほうがちょっとはお得、になる計算。でもまぁ長期保存を考えると、やはりDVD-Rのほうが安心ではある。
2003.3.25(Tue)
GPSケータイ
我が家のケータイはTU-KAで統一されているのだが、こういうサービスが出てくるとなると、au に鞍替えしてもいいかなと思ってしまう。世間一般では位置情報サービスの需要はそれほど高くないらしいけれど(いらない機能の筆頭でもあったような)、みこりんに不測の事態が起きてしまってからでは遅いので、我が家では位置情報サービスへの期待度は高いのであった。
それにしてもカメラ機能がメールに次いで必要とされているのが、いまひとつ理解できない。メールが必須というのはわかるんだけど、なぜにカメラが…。おぉ、こんなところにもうジェネレーション・ギャップが。試しに私もカメラ付きにしてみて、どんなふうな使い方をするか自ら実験してみても面白いかもしれん。案外、日記のネタ用にばしばし使いまくっていたりするのかも。
2003.3.26(Wed)
虫歯治療
Licの歯の治療のついでに、みこりんの歯も定期検診してもらうため、歯医者さんへとやってきている。待合室では他に予約患者の姿もなく、静かなものだ。ほどなくして二人の名前が呼ばれた。3つある診察椅子の真ん中にLicが、一番奥にみこりんが座ることになった。私はみこりんの方の付き添いだ。
みこりんはどことなく恐縮したような表情で、電動椅子の上に乗っかっていた。歯科衛生士さんに、まず歯のチェックをしてもらってる間も、じつにおとなしく口を開けている。と、ここでみこりんの歯に異常が発覚。左の奥歯に、小さな穴が見つかったのである。虫歯だ。
一通り歯磨き指導が終わったところで、いよいよ治療が始まった。ドリルでぎゅいんぎゅいん削られているみこりんだが、やはり微動だにせず。幸い虫歯が軽傷だったようで、痛みはないらしい。でも、見ているこっちの方が徐々に気持ちが悪くなってきた。歯医者恐怖症の悪夢がよみがえってくる。私はあの唾液を吸い取るヤツがとても苦手だった。みこりんはぜんぜん平気そうだが、私の手はじっとり汗ばみ、鼓動も早鐘のように連打している。口の中に入れるガーゼもだめだ。あれをやられたら、もうおしまいだった。その当時の記憶がどっと意識の表層に溢れ、もはや立ちくらみ寸前である。額にいやな脂汗が浮き出しているのが、わかった。
耐えねばならない。ここで私がダウンしては、みこりんにまで歯医者恐怖症が伝染してしまうだろう。爪で手の甲をぎゅうぎゅぅと抓り、痛みで不快感を追っ払おうと努力した。
それにしても最近の詰め物はよくなっているものだ。歯と同じような色彩の物体が用意され、穴の中に詰められている。時々照射されるブルーの光は、もしかして紫外線ライトなんだろうか。あれで硬化させているのか消毒しているのかは謎だが、なんだか直接見てはいけないような気がして、視線を上の方に逸らせていた。
やがて、治療は終了した。みこりんはぜんぜん平気そうである。よかった。私の“口の中超過敏”な性質は受け継がなかったらしい。詰めたあとを見せてもらったが、ぱっとみ治療痕を発見できないほどであった。無粋な銀色の詰め物の時代は、とうに終わりを告げていたのだ。
ところで、みこりんの歯に虫歯ができたということは、私の仕上げ磨きが不十分だったということでもある。気をつけて磨いてやらねば。
2003.3.27(Thr)
開花
いつのまにか職場にある桜並木に花が咲いていた。Licによれば、火曜日にはもう咲いていたらしいのだが、私はぜんぜん気がついていなかった。
ついに桜開花、か。
ところが今日は雨。柔らかに降りしきる弱い雨が、桜の花びらをしっとりと濡らしていた。早くも散らなければよいのだが。
庭の花壇ではチオノドクサが満開だった。コブシの輝くほどに白い花も、ヒヨドリに食われることなく今年は健在だった。去年は、蕾の段階で食い散らかされていしまっていたのに、えらい違いである。コブシの花よりも、おいしい餌を見つけたんだろうか。ならば歓迎すべきことだが、単純にヒヨドリの数が減ったのだとしたら、ちょっと複雑な気分。そういえば最近ヒヨドリのけたたましい鳴き声を聞かないような…
ラッパ水仙は、開花したものはまだ1輪だけだが、花芽は次第に膨らんできつつあり、終園式には間に合うだろう。またみこりんに一輪花束を持たせてやらねば。
2003.3.28(Fri)
雑感
“イラク戦争 「兵器で人の絆は断てぬ」NGOの2人がメール”
というか、そんなことは当たり前なんでは?戦争が怖いからといって、家族ほったらかしにして逃げるヤツなんているのか?こういう感想が出てくるということは、戦争で人の絆は絶たれると思ってたってことなんだろうけれど、そっちのほうが私には異質な考えのように思える。まぁ、祖国防衛という意識の低い日本ならでは、という気もしないではないが。
ところで偵察衛星の打ち上げに反対する国会議員というのも、まったく妙なものだ。どこの国の利益を代弁してるのやら。
2003.3.29(Sat)
早種まき
陽炎が立つかと思うほどの太陽光に、サンルームの扉を全開にして気温計を確認する。…22度、頃合いやよし。発芽適温15度〜20度の種をまくべく、準備を始めた。
冷蔵庫から種袋を取り出し、プラグトレイに土を詰める。たっぷり水をかけ、しっかりと湿らせたところで、種を1つ1つ土の上に並べていった。トレイのどこに何をまいたかすぐにわかるように、ノートに記しつつの作業である。
全部並べおわったら、爪楊枝を駆使して土の中に埋めてやる。伏見甘長、ピーマン、ガザニア、アスター…の途中で、時間切れ。今日は午後イチでみこりんの音楽教室の発表会があるのだ。もちろん、昨年に引き続きみこりんも出場するので、遅れるわけにはいかない。とっとと腹ごしらえして、身支度を整えておかねば。
みこりんを保育園に迎えに行ったLicが戻ってくるまでの、6分間が勝負であった。
種まき途中のプラグトレイは、とりあえずサンルーム奥のテーブルの下に隠しておこう。ここならば小鳥達にも容易には発見されないはず。ネズミもまさかこんな昼間っから出没はしないだろうし…。
6分を、少し過ぎた頃、みこりんの元気な声が玄関方面から届いて来た。準備良し。あとはみこりんを整えたら、出発だ。
音楽発表会
会場前で、みこりんをAE−1にて激写する。古の一眼レフ、手動ピント合せに手動ズーム、手動フィルム巻き上げ、手動シャッター速度合せ。自動の部分の方が圧倒的に少ないカメラで、みこりんを撮った。昨年はデジカメ、今年はアナログフィルム。こうしてさまざまな媒体でみこりんを記録すると、あとでどうやって整理するかが最大の課題となってしまうので、いずれフィルムスキャナを買わねばなるまいと思っている。
さて、会場内では真ん中左寄りに席を確保した。みこりんは、生徒席なので別々だ。バッグにAE−1を戻し、代りにビデオカメラを取り出した。ここからは動画で保存だ。
三脚を忘れたため、手持ち保持。呼吸をゆるくしても、周期的に画面が上下にゆるやかにぶれる。粗いファインダーのLCD越しに、みこりんの登場を待った。
1つ前の出演者が演奏を終了し、舞台の前で司会の人からインタビューを受けている時、闇にまぎれてみこりん達が舞台袖からちょろちょろと登場してきた。幼児科の演目はダンスである。まだ楽器を用いた演奏は行わない。
やがて配置完了したらしい。片膝を付いて、仮面ライダーの変身ポーズのように左手を斜め上に伸ばして待機している。その様子を倍率を上げて確認した。みこりんの表情は、暗がりでいまひとつはっきりしないが、あまり緊張してはいないように思えた。行きのクルマの中ではちょっと緊張したっぽい仕種が見られたが、今はそんなことよりも振り付けを思い出すことに気が向いているのかもしれなかった。
照明が生き返り、みこりん達の姿が浮かび上がった。舞台に並んでいるのはおよそ20人ほどのお子様達である。イントロと同時に、それぞれ覚えてきた振り付けを再生し始めた。でも、ファインダーで捉えているのはみこりんとその両隣の友達だけだ。あとの子供達は別の教室に属しているので、録ってもあまり意味がない。
家ではほとんど練習してなかったような気がするのに、それほど間違えたりはしていないようだった。みこりんの最大の弱点だったテンポがちょっとずれるというのも、今回はそれほど目立ってはいない。
そろそろフィニッシュ。決めポーズ一歩手前でミスったのが目立ったけれど、順調な仕上がり具合だったといえるだろう。いつのまに振り付けを覚えたのやら。やはり記憶力はいいのかもしれない(ちなみに昨年の発表会の様子はこんな感じだった)。
ところで演目が進むにつれて、会場内にざわざわとした私語の波が膨れ上がりつつあった。発生源は、生徒席方面だ。自分の番が終わると、緊張感から解き放たれるのだろう。席を立ったり、後ろを向いたり、かなりの無法地帯ぶり。幼児から小学校低学年までの子供が圧倒的に多いので、無理からぬことかもしれないが、昨年は途中で講師が注意したりして収めていたように思う。今年はなぜかそういう気配が見られない。いったいどうしてしまったのか。
最後のミュージカルの時だけは、子供達はそれぞれの親元へと戻って行ったようで、ざわめきは消えた。みこりんも私の膝の上に乗っかっているが、ストーリーが幼児にはちょっと難解だったようで、すっかり飽きて伸びていた(台詞も小さくて聞き辛かったし…)。
それでもどうにか膝の上で一時間を耐え、記念品を手にしたみこりんは、どことなく晴れ晴れとした表情をしていたように思う。みこりんなりに達成感はあったのだろう。明後日は終園式。みこりんの年中組さんも、ほどなく終る。
帰宅してみると、花桃が2つ3つ開花しているのを発見した。我が家の庭にも、本格的に春がやって来たようである。
2003.3.30(Sun)
旬の花
花壇で咲き始めた春の花々を、デジカメで激写してゆく。みこりんも自分用のデジカメでファインダーを覗き込み、風景を切り抜いていた。
やがてみこりんが、「どっちでとったらいい?」と聞きに来た。花桃の前と、ラッパ水仙の前と、いずれを背景に選べばよいかと問うているらしい。つまり、被写体は自分自身というわけだ。花桃はまだぽつぽつとしか咲いてはいなかったが、その足元にチオノドクサが満開だったのでそちらを推薦してみると、みこりんも同意してくれたようだ。さっそく花桃の前に移動して、立ちポーズを決めつつ右腕をぐぐっと伸ばし、レンズを自分の方に向けて、シャッターを切った。みこりんは、小さい頃から自分の写真が大好きだった。その傾向は今なお健在のようである(『旬の花』を4年ぶりにリニューアル)。
カメラのあとは、ラジコンで遊ぶ。いつもの歩道ではなく、庭で走らそうとしたため、苦戦するみこりん。春の芽吹きは雑草達にも同様に訪れており、冬の間、平坦だった庭は、いつしか不整地へと変貌を遂げつつあったのだ。ここを走破させるには、車高の低いスカイラインでは難しい。オフロード車か、あるいは戦車のラジコンを投入すべきシチュエーションだ。我が家に2台目のラジコンがやってくるのも時間の問題かもしれない。
*
午後、裏庭の整理を行った。枯れ草やら伸びきった山紫陽花の枝やらで、こっち方面から見ると、空き家っぽい雰囲気を醸し出しているのが、ずっと気になっていたのだ。ここをやるには、雑草が活発に活動を開始する寸前の、今しかない。山紫陽花の剪定も、これ以上遅れると致命的だ。
伐採中、何度かみこりんが様子を見に来ていたが、積み上げられた枯れ草の山を乗り越えられずに接近を断念。結局、夕方近くまで、一人で黙々と作業を続けることになってしまった。
その甲斐あって、廃屋の“匂い”はすっかり消え去った。が、あとに残った山のような伐採屑やら枯れ草を、いかに刻むかが問題だ。これを処理しようと思ったら、まる一日かけても終りそうにない。乾燥させて燃やすのが手っ取り早いが、煙がもうもうと立ち込めるだろうから、それは避けたいところだ。…やはり、地道にやるしかないか。
2003.3.31(Mon)
お別れ
みこりんはうまく手紙を渡せたらしい。今日は保育園の終園式。担任の先生が異動になってしまうので、お別れの手紙を独自に書いていたのだ。
「寂しい?」と聞いてみたことがあるのだけれど、みこりんは「さびしくない。またあえるから。」と、どこか達観したかのような落ち着きぶりが印象的だった。逢える保証はどこにもないのに、みこりんにはすごい思い込みがあるらしい。どうやら以前、スーパーで姿を見掛けたことがみこりんに勇気を与えているようだ。その幸運が、またしても訪れることをみこりんは信じて疑ってはいない。
先生達に贈った花束も、無事に作れたとLicは言った。花壇のラッパ水仙は、間に合ったのだ。じつに運がよい。案外、みこりんの思い込みは叶うのかも。そんな気になる春の出来事であった。